『この森には宮ホーホーという化物がいると祖父の寝物語にきいて、夢に見たこともある。宮の鳥居をくぐると、四二段の石段があるのだが、宮ホーホーはその上のほうに腰をかけ、その足は石段の下まで届いていた。白い着物をきて、にたにた笑っていたのである。何となく恐ろしかった。』宮本常一『私のふるさと』より
山口県の周防大島に行ってきた。筆者は広島での学生時代、この島にあるに友人宅に夏になる度に5・6人で訪れて、1週間くらい過ごしていた。その頃は単に大島と呼んでいた。今回は、松山市の三津浜港からフェリー乗って向かった。アーキペラゴの美しさにうっとりしていると、1時間はあっという間だった。大島の伊保田港から乗ったタクシーで聴いて初めて知ったのだが、ここは村上水軍の島でもあった。島南の〈龍心寺〉には、水軍の将・吉武の墓もあるという(和田竜の『村上海賊の娘』の父親)。この寺には首から上の病を治すという〈大友大権現〉も祀られている。
島の中ほど、常一の生まれた地区にあるのが〈宮本常一記念館〉。凄いボリュームでくらくらした(空調の効きもちょっと悪かったが)! 宮本常一は、1907年山口県屋代島生まれの民俗学者。柳田國男の研究に関心を示し(漂泊民・被差別民・性などの問題を重視したため、柳田の学閥からは冷遇されたが)、渋沢敬三に見込まれ食客となり〈アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究)〉の所員となる。生涯にわたり離島・山村など日本全国各地を調査して廻り、膨大な資料を残した。さらに持続的な地域の発展の方策を住民と共に探求し、振興策を提言し続けた。
屋代島というのが、周防大島の正式名称。実はこの島、『日本神話』でのイザナミの国産みで出てくる大八島の内、七番目に生まれたと言われる。実際、淡路島・小豆島に続く大きさ。
島と本土の柳井を結ぶ海峡は、潮の流れが速く渦潮が発生(筆者もフェリーから見た)。「大畠の鳴門」と呼ばれ、古くからこの海底には金の龍神が棲むと言われていた。ある時、都まで轟く程の美しき豊後国の般若姫が、この地を訪れた。恋に落ちた橘豊日皇子(聖徳太子の父、後の有名天皇)に会う為に船を出したのだが、この海峡に差しかかった時に、海底に棲む金龍の怒りで嵐となり、多くの命が失われてしまった。これを鎮めるため、般若姫は自らの命を差し出した…。山口県熊毛郡平生町の〈般若寺〉に祀られている。毎年、海底の龍宮から龍燈なる火の玉が寺に飛来するという。また、般若姫が旅の途中で水を求め、礼にと井戸に刺した一本の柳の枝が、一夜にして巨木になった。これが、周防大島の対岸の柳井という地名の由来とされる。
また、この辺りの海で、1月6日頃に海から聞こえるのが虚空太鼓。どこからか聞こえる太鼓のような音で、かつて遭難した軽業師の怨霊と言われる。鳴門や、高知沖等でも似たような例がある。酒好きで「樽をくれ〜」と叫ぶ赤い毛の海猩々、海坊主の話も伝わる。
常一の家のすぐ近くに、新宮島という小さな島があり、筆者も行ってみた。冒頭に引用した『私のふるさと』にも思い出深い遊び場として描かれている。沖とカチの2つの島からなっていて、潮が引くと陸続きになる。カチの南島にはエンコ(河童)の墓があり、ここで溺れ死んだ子供の供養のために建てられた地蔵だ。子供の溺死は全てエンコの仕業とされた。これに引かれないためには、久留米の〈水天宮〉のお守りを持つと良いと信じられていたが、その中に千枚に一枚効き目の無い白札があるとも言われていた…とある!
前述の常一が「お宮の森」と呼んでいた〈下田八幡宮〉の宮ホーホーのほかにも、落ちているのを拾おうとするとぴょいと飛ぶ一升袋、どこまでも付いてくる背高入道は豪胆な男に睨みつけられ消えた(この人は殿様からのお召しを断り百姓をしたという)。
そんな常一の化け物話は、素朴なだけに現実味がある。また幻想的な感じは、天草の海で生まれ育った石牟礼道子の描く世界にも似ていると思う。そして、筆者の母方が瀬戸内の島にルーツを持つせいか、筆者もひどく親近感をおぼえる。
さて、常一は『ふるさと大島』で、『島の人たちは近ごろ観光をしきりに口にしているが、この牧歌的なものをもう少し残しておいて、都会の慌ただしさに疲れた人がぶらりと来て、ぶらりと歩いて帰れるような、そういうふうなところにしておきたいものだ一静けさと素朴さを愛する人々のための憩いの場所にしたいものである。』と書いている。現在、大島はかつて戦後のハワイ移民の縁から、カウアイと姉妹都市縁組を結んでいて、「瀬戸内のハワイ」と銘打って、観光客にアピールしている。更にコロナ以降移住者が増え、最近は高額納税者が複数転入して税収が約7倍、平均収入は全国2位の1200万円に! まさか、こんな事態になるとは常一も予想だにしなかっただろう…。
緑陰より伸ぶ宮ホーホーの白き足風来松