343. 文字

紀元前668年頃、アシュル・バニ・アパル大王統治下のアッシリア。図書館から文字の囁きが聞こえてくるという怪異が起こり、王は老博士ナブ・アエ・エリバに、文字の霊の研究を命じる。だが、研究を進める内、文字は解体し意味のない線と化していく…。『人は文字に蝕まれ、文字に使われる下僕と化している。文字は影のような薄皮である…』。やがて、恐ろしくなった博士は、早々に結論を王に報告して逃げ出そうとする。しかし、大地震が発生し、数百万枚の重い粘土版の下敷きとなった博士は圧死してしまうのだった…! 中島敦『文字禍』(1942年)。

狩房淡幽は、代々筆記者の家に生まれた、右足に墨色の痣を持つ女である。全ての生命に死をもたらす禁種の蟲を体内に封じており、を屠った話を書物に書き記す事により、生涯を封じ続ける。書物は『狩房文庫』と呼ばれ、退治の指南書となる。たまに紙魚の卵を文書中に忍ばせて遊ぶこともある。漆原友紀『蟲師』(1999年)。ちなみに、絵に描いたのが、淡幽。彼女が登場する回のタイトルが『筆の海』。「筆海」は「硯」の意である。

ちなみに、中島敦の『文字禍』を下敷きに、2018年円城塔が『文字渦』を書いた。また、『文字禍』に登場のアシュル王は実在し、その図書館がイラク北部の〈クユンジク遺跡〉から発見されている。3万点以上の楔形文字の粘土版には、あの『ギルガメシュ叙事詩』も含まれ、H・G・ウェルズは「世界で最も貴重な歴史史料の源」と言った。

さて、文字のというと、まず古代エジプトの女神セシャト。「文書を司る者」・「初めに書いた者」等と呼ばれる。図書館の管理、ファラオの演説の記録をする。彼の父とも夫ともされるトートも、書物・書記の。トキやヒヒの姿で表される。〈ヒエログリフ〉を作り、全ての人の一生、死者の名、また即位した王の名を永遠に朽ちることのない葉イシェドに記す。

古代メソポタミアにも、アッシリア・バビロニアで信仰されたナブーがいる。書記・知恵・草木を司る(『スター・ウォーズ』の平原と沼の惑星ナブーもここから)。全ての人間の運命が記された運命の石版を持つ。

古代インドでも、『リグ・ヴェーダ』にある、言語の女神ヴァーチがいる。〈サンスクリット〉を創造したと言われる。創造神・ブラフマーの妻である水の女神・サラスヴァティー、日本では弁財天とも同一視される。

『マヤ神話』にも、双子の書記の守護神であるフンバッツフンチョウエンがいる。彼らは、親族とのいざこざで、サルの姿にされた。前述のヒヒ姿のトートと似ているのは、偶然?

日本にも、奈良葛城山に祀られる一言主(ヒトコトヌシ)大神が、言葉の神とされる。ただ、『日本霊異記』では、役小角の使役する鬼神として登場する。

人類最古の文字というと、紀元前3000年頃のメソポタミアの〈原楔形文字〉。エジプトの〈ヒエログリフ〉、中国の〈甲骨文字〉。現代のおおよその文字が、これらから発展したのだが、〈マヤ象形文字〉・〈ハングル〉・イースター島の〈ロンゴロンゴ〉等、例外もある。

偽書の回でも触れたが、神代(かみよ/しんだい)文字は、日本に漢字以前にあったと言われ、平田篤胤等が存在を主張しているが、貝原益軒・本居宣長はじめ、国語的には完全に否定されている。江戸時代、徳川家康が捕らえた雁の羽根にも謎の文字が書かれていて、あの天狗小僧・寅吉に見せたところ、仙界の文字だと言ったという。

漢字も、室町時代にやって来たキリスト教の宣教師たちからは、「悪魔の文字」呼ばわりされた…。

現代日本には、〈幽霊文字〉というのがある。基礎漢字に含まれるが、典拠不明の文字。その最たるものが『彁』。国際規格〈unicode〉でも採用されている。

異なる見方をしても読むことのできる〈アンビグラム〉も面白い! これを作った一人と言われる、ジョン・ラングドンから、ダン・ブラウンの小説の主人公も、ロバート・ラングドンと名付けられた。映画化もされた『天使と悪魔』にも〈アンビグラム〉が登場し、話題となった。ちなみに、『化物語』等で知られる小説家、西尾維新のペンネームも、ローマ字で書くとNISIOISINとなり、〈アンビグラム〉となっている!

さて、最後に文頭に書いた、中島敦に戻ろう。彼のデビュー作が、『古潭』の総題のもとの『山月記』・『文字禍』だった。これらの原稿は、敦がパラオに行く前に、『日本百名山』で知られる深田久弥に託し、1942年に『文學界』に発表された。しかし、この数ヶ月後、中島敦はこの世を去った。彼は、フランツ・カフカ、エドガー・アラン・ポー、泉鏡花、小泉八雲、正岡子規、夏目漱石の影響を受けたと言われる。

文字の禍も幸も土筆も卵綴じ風来松