2008年、江戸時代に書かれた一冊の本が、〈Twitter(現X)〉で話題となり、俄にブームとなった。現代語に訳された本(岩波文庫『天狗にさらわれた少年』)は10刷3万部まで出され、〈Amazon〉でもベストセラーとなった。古書に至っては、一時6万円以上の値が付いた! その本こそ、1882年平田篤胤が世に出した『仙境異聞』である。
1811年、江戸下谷七間町の煙草屋〈越中屋〉の息子寅吉(当時7歳)は、寛永寺にて丸薬を売っていた老人が、四寸(約15cm)の小瓶に入り、空に飛んでいくのを目撃する! 実は、この老人の正体は、愛宕山の大天狗・杉山僧正だった。「天狗に攫われた少年」と言われるが、「攫われた」というより「唆され」て、付いて行った。全国各地に連れ回された末、常陸岩間山で修行。書法から、武術、医術に至るまで、様々な事を教わる。なんと11歳になるまでの5年間! その頃になると、寅吉も自ら空を飛べる迄になり、日本全国どころか、中国まで行って、美しい声の人頭の鳥迦陵頻伽も見たという。
さて、実はこれまでの諸々は、固く口止めされていたのだが、寅吉、つい話してしまい、江戸中で評判となった。そして、彼が14歳の時、随筆家の山崎美成宅で国学者・神道家・医者の平田篤胤に出会う。篤胤は仙吉を自分の家に引き取り、5〜10年かけ聴き取り、完成したのが『仙境異聞』である。完成後、長らく門外不出とされた為、世に出るまでには更に年月がかかる事となる…。
さて、寅吉の語ったところによると、天狗達の棲む仙境の、文字・食事・着物・楽器・武器は我々のものとは、やや異なるという。文字は、金毘羅の山の御神の文字について語っており、神代文字ぽい。天狗は、魚・鳥は食うが、四足獣は口にしない。また、小さな丸薬を口にするという。琴を使った奏楽で舞い、将棋はするが囲碁はしない。四国・金毘羅への出張は籤引きで決める。団扇が空気砲のような武器となるが、仙境には争いは無いという。
寅吉の訪れた国々も興味深い。夜の国ホツクのジウ。犬を食べ、その皮を纏う犬の国。女嶋は、日本の東四百里(約1600km)にあり、その名の通り女だけの島。山の洞穴に棲み、昆布を採って食べている。男が流れ着くと、食べてしまう! 子は、女同士で抱き合い、笹の葉の束を手に西に向かって祈る事で懐妊する。そして、なんと、月や太陽にまで行ったという…!
もちろん、当時も寅吉の話を、作り話のでたらめという者もいた。しかし、それにしたって、この膨大な量と、多岐に、細部に渡る創造的な物語は素晴らしい…! 同様の話は、実は各地にあり、『甲子夜話』にも、東上総の源左衛門が7歳と18歳の時に、やはり天狗に攫われ、諸国を周ったとある。
柳田國男は、これを悪質な修験者や、山の民が人里で少年を拉致したのだろうと推測している。しかし、前述の宇宙にまで行った事を考えると、天狗=宇宙人説も…。もし、貴方が天狗に攫われそうになったら、「鯖食った。鯖食った。」と唱えましょう。しかし、筆者は攫われてみてもいいかな…。
ちなみに、寅吉はその後、下総〈諏訪神社〉の神職となり、秘薬で人々の病を癒したともいう。その子も薬湯を入れた〈天狗湯〉を営み、昭和の頃まで営業していたという!
誘われて春の渚のその先へ風来松