影女は、山形県鶴岡市に現れた、障子に映る女の影。移動はしたが、特に害を与えるものでは無かった。鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』にも載る。大阪の影法師も障子に映る僧の上半身。香川のタカンボは夜道で見上げると、どんどん大きくなる影。見越し入道に似ている。島根県温泉津の影鰐は、凪の日に船を出すと、海面に映った漁師の影を喰う。喰われた者は死ぬという。長崎や佐賀の磯撫で、岡山の悪楼(あくる)等にも似ている。和歌山県すさみ町の琴の滝に棲む牛鬼も、人の影を喰い死に至らしめるといい、秋田県のカゲトリも淵や沼の畔に人の影が映ると、引きずり込むという。
影といえば、影送りや、影踏みも思い出す。前者は、あまんきみこの『ちいちゃんのかげおくり』があった。後者は元々、月明かりの下で「影や唐禄神十三夜の牡丹餅さぁ踏んでみんしゃいな」等と囃しながら行われた。唐禄神とは、子供と親しい道祖神の事だろうか。
UMAには、2006年頃からアメリカを中心に目撃されているシャドーピープル・シャドーマンがいる。
海外では、ドイツのブロッケンの妖怪が思い出される。いわゆる、霧に自分の影が映る〈ブロッケン現象〉だ。同国には、金貨と引き換えに影を悪魔に売り渡す、シャミッソーの『影をなくした男』という話もある。
2016年、村上春樹が〈アンデルセン文学賞〉の受賞スピーチで、アンデルセンの『影』について語った。この話の中で、主人公は影に入れ替わられ殺されてしまう。村上春樹の小説『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や、それの完成版とも言える最新作『街とその不確かな壁』を思わせる。春樹はこうも言っている。「影を作らない光は本物の光ではない」
古代ギリシャ語の「プシュケー」には、「息」、「魂」と共に「魂の影」という意味もある。
そつと踏む見知らぬ人の長き影風来松