85. ヒバゴン

アポロの月面着陸にも間に合わなかった筆者だが、ヒバゴン騒動にも僅かに届かなかった…。

1970年7月20日午後8時。第一発見者はトラックを運転していた丸崎安孝(31)。場所は広島県比婆郡油木〈中国電力大ノ原ダム〉付近。足跡や踏み倒された草木も後日、第三者が確認。3日後の23日。同地区で、農家・今藤実(43)が草刈り中に目撃。30日にも、水田の畦道で。ここに及んで、小学校では集団下校の措置が取られる。その後も目撃は相次ぎ、11月3日〈中国新聞〉で、ヒバゴンの名前が初出。名付け親は、〈中国新聞庄原支局〉長・宮尾英夫。12月には、吾妻山の雪原で足跡が発見された。ここまでで、目撃情報は12件に達した。

翌71年、役所に〈類人猿相談係〉(通称ヒバゴン課)が発足。その後も、庄原市川北町須川、比和山等で、目撃が続き、遂に1974年8月15日午前8時05分過ぎ、比和郡在住の三谷美登により、写真に撮影された! 母親と車で走っていた際に遭遇。ヒバゴンは、こちらに気づき柿の木に飛びついたという。彼女は車を降り7〜8mの距離でシャッターを切った。ただ、画像は非常に不明瞭で、〈日本フォーティアン協会〉会長の並木伸一郎も、「これだけでは何とも言えない」と発言している…。

同年10月11日が最後の目撃例となり(最終的には約100件!)、明けて1975年ヒバゴン騒動終息宣言が出された…。ただ、その翌年タクシー運転手による目撃、80年には比婆山中で正体不明の霊長類のような大型動物の半分白骨化した死体が発見された! その年、福山市山野町田原で目撃や、足跡の発見もあり、こちらはヤマゴンと呼ばれた。その後、久井町にもクイゴンが…。

時は流れ、2004年重松清が小説『いとしのヒナゴン』を執筆。伊原剛志・井川遥主演で映画化。(そういえば『北京原人』という映画で、てっきり緒形直人が北京原人役だと思った事を思い出した…)2008年には、〈ヒバゴン課〉係長・見越敏宏の『私が愛したヒバゴンよ永遠に』が出版され、勿論、即購入した。

以上、これまでのヒバゴンに関する情報を時系列で、ダラダラと述べた。ここで、落ち着いて、その容姿を見ていこう。身長は150〜160cm。黒または、濃い茶色の毛に覆われ、頭部の毛は逆立っている。顔は逆三角形で、オデコに3本の皺。鼻は潰れて上向き。尻には猿のようにハゲた部分はない。動作は緩慢。片足を引きずっている。イルカのような鳴き声。人を恐れる様子は無く、危害も加えることは無い。

正体としては、クマやサル説。情報源が不確かだが、当時密輸されたが行方不明となったオラウータン。動物園から逃げ出したゴリラ。また戦時中、行方不明となった毛深く跳ね回る男の子、昭和初期に山中でやはり行方不明となった身重の女性の子…などなど。

よく似たUMAには、イエティビッグフットサスカッチ野人等がいる。しかし、これらのレジェンド級大物と異なるのは、この騒動にいたるまでの伝承・伝説が無いという点…。が、そうとばかりも言い切れない。『古事記』によれば、伊邪那美は比婆山に葬られたとある。(この辺りは日本ピラミッドとしても有名)小松左京は小説『黄色い泉』で、伊弉冉より生まれた雷神ヒバゴンを結びつけて描いた。また、この地の熊野神社には、天変地異が起こると天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が姿を現したという。更に、全国に話がある、しっぺい太郎猿神退治も中国山地に多い。

ヒバゴンについて、かくも熱くなるのは、やはりヒバゴンが一番身近なUMAだからだろう。筆者は、大学から広島に約10年住んでいた。学生の頃、友人と2人ママチャリで鳥取砂丘まで行ったことがあったが、その時通った比婆山には、確かに何かがいそうな気配はあった…。

ヒバゴンか老人襲った猪倒す風来松