先日、地元松山の港町・三津の『手と紙』というイベントへ行き、〈睦TUMI〉という店で、水引を使ったペーパークラフトを買い求めた。五色の和紙と一枚の大きな葉を、五色の水引で束ねたような素敵なデザイン。葉は梶の葉で、かつてはこの葉の裏に和歌を書き、七夕の飾りにしたと教わる。
『平家物語』にも、貴族の館で願い事を梶の葉に書いたとある。絵にも描いた、藤原俊成の歌にも「かじのは」とある。梶は青々とした葉のコウゾ科の植物で、神社の境内に神木として植えられる。和紙の原料にもされ、元来、葉書に用いられた葉のひとつ。裏に毛があり書きやすく、天の川を渡る船の舵とも懸けている。墨は、里芋の葉に溜まった露を用いた。
七夕が日本に伝わったのは、もう少し前の奈良時代。「たなばた」という読み方は、牽牛の「種物(たなつもの)」と、織女の「機物(はたつもの)」からという説。また、元々七月十五日に行われていた〈棚機津女(たなばたつめ)〉の儀式からともいわれる。これは、七月十五日の夜、特に選ばれた一人の処女が、水辺に作った機織機で衣を織り、水神の一夜妻となり、その子を宿すというもの。村の災いを取り除くとされた。
また、七夕は乞巧奠(きっこうでん)とも言われ、手芸の上達を願い、宮中や貴族の家で行われた。清涼殿の庭にも果物が供えられ、ヒサギの葉一枚に金銀の針七本を刺し、五色の糸を縒り合わせたものを通した。
江戸時代になると、前述の梶の葉に五色の色紙を着せかけて糸で結んだ〈梶の葉飾り〉が作られた。この頃になると、手習いの願かけとして庶民にも広まっていた。七夕飾りの笹は、日本独自の物で、その生命力や力強さから、精霊・神の宿る依代とされ、当時は軒下でなく、屋上に飾られた。短冊の登場は、明治時代に入ってから。
元は、やはり中国で「七夕」と書いて「しちせき」と呼んだ。牽牛(鷲座のアルタイル)と、織女(琴座のベガ)の逢瀬を祝う星祭。遊んでばかりいる2人を天帝が天の川で引き離し、一年に一度七月七日だけ、カササギの橋を渡って会うことを許したという伝説。
七夕は、紀元前450年頃に編纂された中国最古の詩篇『詩経』に既に載る。漢の時代の『文選』に牽牛・織女の伝説、『西京雑記』に七月七日に手先が器用になる事を願う乞巧奠が記されている。南北朝時代の『荊楚歳時記』にも、七本の針の穴に美しい糸を通して針仕事の上達を祈ったとある。黄銅の七孔針に五色の糸(五行説の緑紅黄白黒)で、月に向かって風を通したとも。宗時代の『東京(とうけい)夢華録』には、小箱に入れた蜘蛛が丸く巣を張ると、願いが叶うとされた事が書かれている。六朝の時代に、今の伝説の原型が出来たとされ、『羽衣伝説』との融合も見られる。
江南では、針を水に浮かべて願いが叶うか占い、西南・広東では鳳仙花等で爪を染める。閩南では、織女を七娘媽と呼び子供の守り神とし、柘榴とシクンシで煮た卵と肉の黒砂糖入り餅米を食べる。台湾・香港・韓国(鯉を食べる)でも、七夕を祝う風習が残る。
ただ、現代の中国では、西洋のバレンタインデーの様な、恋人たちの祝日といった感じになっているらしい。
さて、日本はと言うと、仙台の七夕祭りや、富山黒部の七夕流しが有名。その他にも、地域によっては雨乞いや、虫送りと融合した独特なものもある。特に北海道で行われる〈ローソクもらい〉は、〈ハロウィン〉のように、子どもたちが夜にお菓子をもらって廻る。七人の集団になり、灯籠片手に囃し唄を歌いながら、近所を訪ね歩くというもの(本当にローソクを渡すとガッカリされる)。
さて、絵に描いたのは最初に述べた、梶の葉を模したペーパークラフト。シルエットの鳥は天の川に橋をかけるという、カササギ。この鳥はもともと日本には生息しておらず、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れて来られたと言われる。英語圏では光るものを集める事から、泥棒の暗喩とされる。そうか! それで、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の副題が『泥棒かささぎ編』だったのか(元ネタはジョアキーノ・ロッシーニのオペラ)! シルエットの男女も、牽牛・織女と、『ねじまき鳥クロニクル』の登場人物を合わせたイメージ。鳥の方は小説の表紙に描かれていたもので、バリの古い美術館で見つけたデザインらしい。
たなばたのとわたるふねのかじのはにいくあきかきつつゆのたまづさ藤原俊成