356. 金長狸

ゴールデンウィークで、徳島小松島へ。我が伊予松山に八百八狸騒動があるように、ここにも阿波狸合戦があり、金長狸がいる。

小松島の駅におりると、小さな駅舎に似つかわしくない立派な観光ブースが! そこの案内のおばちゃんに「この先に世界一の大きさの狸の像があるでないで。その前で手を叩いてみてね。」と教わり、早速行ってみたところ、あった、あった、巨大な像が(5m5t)! 言われた通り手を叩いてみると、像の背後の青石から滝よのうな水が! そうか、この地は水が豊富なのか(筆者の住む松山は、四六時中、水不足に喘いでいる)。この先の公園にも、沢山の狸の像があった。絵に描いたのは、そこで土産に買った『狸合戦最中』の包み。ご当地キャラ〈こまポン〉のデザインには、名物の〈すだちちくわ〉と、源義経の伝説も取り入れられている。

さて、時は天保年間(1830〜1844年)。染物屋・茂右衛門が助けた狸は、付近の狸の頭株金長だった(206歳)! それ以来、店は繁盛し、更に奉公人・万吉に憑いた金長は、お客の病を直したり、易も見たりして、評判となる。

暫くして、金長は、位を得るため、津田の総大将である化け狸・六右衛門の下で、藤ノ木寺の鷹と共に修行に出かける。めきめきと力をつけた金長を、六右衛門は娘子安姫の婿として留めようとするが、茂右衛門への義理と、六右衛門の残虐性を理由に断ってしまう。六右衛門はいずれ敵となるであろう金長に夜襲をかけ、は殺されてしまうが、金長は生き延びて日開野に逃れて行った。

六右衛門の娘子安姫は、金長を慕って自害。金長は、子安姫の敵討ちの為に同志を募り、ここに阿波狸合戦が始まる。勝浦川を挟みそれぞれ300匹が、三日三晩に渡って戦った(実際この日、土地の人々は、何かのひしめき合う音を聞き、飛び交う火の玉を、戦のあとには多くの足跡を見たという)。そして遂に、金長六右衛門を食い殺して終結。しかし、金長もまた刀傷が元で、程なく死んでしまった…。

話を聴いた茂右衛門は、金長に代わって京〈吉田神祇官領所〉へ赴き、正一位を授かり、金長大明神として〈金長神社〉に祀った。

これらは、江戸後期の写本『近頃古狸珍説』や『金長狸一生記』等に書かれ、その後、神田伯龍の講談『四国奇談実話古狸合戦』で広まった。1939年には、『阿波狸合戦』として映画化して、大ヒット! 倒産の危機を救ったとして、〈新興キネマ〉は、新たに神社を建立。玉垣には、嵐山光三郎・長谷川一夫・京マチ子らの名前が刻まれた。その後もシリーズ化し、1994年には〈スタジオジブリ〉が『平成狸合戦ぽんぽこ』を製作。六代目金長が登場した!

『阿波狸合戦』のモデルは、地元の漁業権や藍染に使う砂をめぐる争いとも言われる。

さて、ここからは余談なのだが、狸と言えば、〈信楽焼〉。明治時代の陶芸家・初代狸庵こと藤原銕造が作成。「他を抜く」や八相縁喜と言われる体の部位で、縁起物とされる。1951年、滋賀県信楽町への昭和天皇の行幸時に沿道に並べられたのがきっかけで、全国に広まったという。その際陛下は『をさなきときあつめしからになつかしもしからきやきのたぬきをみれば』と詠んだ。

最後にもう一つ、狸と言えばあの歌「たんたんタヌキの金玉は〜♪」を思い出す。そういえば、浮世絵にもやたらと陰嚢をデカデカと描いている絵が少なくないし、妖怪話でもよく出てくる。気になって調べてみたところ、実際の狸のソレは普通サイズらしい。では、由来はというと、江戸時代の金細工職人がよく伸びる狸の皮を使用して、金を叩いていた事らしい。ちなみにあの歌、『ビックカメラ』のCMにも使われているが、元は賛美歌の『まもなく彼方の』。新しいの都エルサレムでの再会を願い、葬儀等で歌われる。ジョン・フォードの『駅馬車』・『荒野の決闘』、サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』でも使用されている。それを、金玉とは、作者不明ながらなんとも、罰当たり…。

すだちくわやけんど令和狸合戦風来松